何よりも自分史が純粋に楽しいことを打ち込むことが最も良いことだと思うんですよね
それは本人自身しか分からないことだと思うんですよ
周りがこの人はこれが向いてるからとかこれをやるとすごく今後にいいからとか利益になるからとかそういうのを基準に何かを選ぶっていうことではないんですよね
純粋にそれは後行った時に自分自身がワクワクするかどうかはすごく大事だと思うよ
例えば野球がすごく流行っている地域があったとしてみんなが野球をやってたしても自分は野球をすることがそんなに楽しくないと純正に思うんですよね
そしたら無理にみんなに合わせて野球をしなくてもいいですよね
そういう感じで画一的な時代は多分ほぼほぼ終わってるんですよね
なんで確率的が一般的なものになったかって言うと多分それは当時最適会だったからだと思うよ
つまり工事はすごく強くない立場にあってだから数の力で村があることで力を得ることだったんですけど今テクノロジーっていう強力なパワーを個人が得られる時代になったから数の力をお借りなくても個人は十分テクノロジーの力でそれを借りて豊かに生きられるような時代になったんですよね
そうするとみんな違うのが当たり前なはずでみんな違う確率的じゃないっていう状態が姿勢なんですけれどもしれな状態でも割とそういうテクノロジーを使うことで生きられるようになったんですよ
だからみんなと一緒に同じことをやる必要はなくなったわけなんですよね
もっと大事なのは個人個人実は同じように見えて繊細に違うし水も全く繊細に異なるわけでそれに対して絶妙に合ったものを取り入れるって言うことが大事だと思うんですよ
例えばある人は物理学がものすごく絶妙に自分に必要な学ぶ対象だったですよね
なぜなら彼は将来研究者になってそれを使って何かを開発するっていう明確なビジョンがあったからなんですよね
つまりその人にとっては実用的に物理学をハックする学ぶっていうことは実学として必要だったんですよね
だけどほとんど多くの人にとって物理学を詳しく学ぶということは全く実学ではないと思うんですよ
教養として広く浅くじゃないけれどもある程度知っておくっていうのは確かに有益かもしれないんですけれども細かく学ぶっていうのは術の全ての人に同じように必要かって言うと違うんですよね
だから同じようにアカデミックなもっともらしい学問を全ての人に均一にそれは一見公平に見えるようなことなんだけれど同じように教える必要は全くないと思うんすよね
ある人にとっては話を聞く技術のがものすごく価値がある場合があると思うんですよ
例えば取材をする記者とか飲み屋のスタッフさんとかは話を聞くことでさらにたくさんのお酒を飲んでくれたりすることで売上につながるみたいな環境で過ごしている人にとっては頷きの仕方とか話を聞くこととか深掘りする方法とかそういうところを学んだ方がすごく実用的なんですよね
江戸時代は幾何学と数列が実学として漫画 baletta ですよねなぜならば商品はそれが生活の中で必要だったからですよね
田んぼを測る時に入り一化学が必要でみんなは自営業的な感じだったから急に計算をするために手術が必要だったんですよそれでそれらを教える数学の専門家みたいな人が全国を歩きまわってる人がいたんですよねそういう人たちが全国津々浦々農村に入って賞味にそういうのを教え待ってる人がいたんですよ
当時実学だった数列解き科学が明治以降になると実学じゃなくなったんですよつまり必要じゃなくなった遇えんなですよねなぜならば工業化が始まったわけなんですよ江戸時代までは庶民は自営業的な感じでそれぞれ仕事を営んでいたんですけれども明治以降になってから工業化が集まってそういう人たちをかき集めて一つにしてていう工業化が始まったから数列とか幾何学は必要なくなったんですよね
何で明治以降になってからまた次数学としては何かっていうのを考えて明治以降に自主学を教えるようになったんですよ