所有vs共有

ノマドから農耕を始める事で所有という概念が生まれて、個人が生まれ、個々の壁が生まれ、社会、社会的なあらゆる幻想が生まれた説。

シェアリングエコノミーというのは突き詰めると自然への回帰ではないだろうか?実は個々は存在しなくてて自然ベースで一体的な意識が
類には存在していた。

けど壁ができる事で私とあなたと対立が生じる。所有という農耕以降のパラダイムを共有という原点の、自然なパラダイムに転換させる。そのパラダイムは自然だから、そのメガネをかけたら割と自然に生きられる。

一方で、所有というのは果たして不自然なパラダイムなのかもしれない。そうすると、そのパラダイムをインストールするとやがれ様々な不自然な軋轢やひずみが個人レベルから組織レベル、やがて社会へと波及していく。

しかし、現代社会は所有というパラダイムを積み上げることで社会的な体裁やアイデンティティを保てる。私は社長だ、会計士だ、税理士だ、開業医だなどなど。それらは肩書きという無形の所有物である。

しかし、一旦、所有パラダイムの上に1を積み上げていくと、積み上げていけばいくほどしんどくなる。なぜなら、そもそも所有というパラダイムが不完全で不自然だから。確かに社会ではその色眼鏡をかけて一時的には安定的に思われる状況やおいしい思いもできるかもしれない。

アドラー心理学では課題の分離という考えで、例え血の繋がった親や子供でさても他者として、他者の課題には関与できないというのがある。だから僕は他人の意思決定とか全く関心ないんだけど、個人では共有ベースのメガネをかけていきたい。

たしかにドラクエ3で例えば自分が戦士でレベル35まできたが、そこから「遊び人」に転職してレベル1からスタートするのは、周りにも迷惑がかかるし、自分もスライムを倒すのにやっとだったり、まあ、役に立たんし、きまりが悪いのである。

しかし、人生130年、遊び人に転職してレベル20で賢者になり、僕は🏀や⚽などとBBQや音楽をかねたイベントを開催したい。田舎の土地を無償で引き受けて開墾して超イケてる🏀や⚽や音楽超絶いい音響でガンガンかけて十勝のスノーピークみたいなあんな感じなのをやりたい。そんで付加価値あげてブランディングでバブらせてバイアウトしてスペインへいく