数字の奴隷

数字に囚われる事、数字はツールだが人間がそのツールに囚われる事で逆転現象が起きてるのは往々にしてある。あらゆる分野で数字をクロスさせる。趣味とかなんでも。最初の内は簡単でそれと掛け合わせてなんなりできてよりうまくできる。途中から帳尻合わなくなったり、それに固執してがんじがらめになるみたいな。人間よりも遥かに強力なツールだから。農耕、スマホ、数字とか人類史に発明されたツールで逆転現象が多分起きてるのは多々ある。

数字をクロスさせて承認欲求を取るという客観的世界でもそう。例えばギャンブルで10万儲かったとか30万パチンコスロットで勝ったと自慢したとして、方や、バカラで1回500万とか賭けて1回で何千万とか勝つのが当たり前の人はパチンコスロットで1日で30万とかでは全く満たされない。

知足じゃないけど、生活水準が上がると下げられないみたいに、数字が上がると低い数字では満たされなくなる。この状態も、数字をクロスさせることによって怒ってるのかなと僕は思う。

逆に、数字をクロスさせなければこれは起きないのではないか。突き詰めると客観的世界ではなく、主観的世界に生きるという事。

どゆことかというと、数字は客観的な世界に生きる為のツールだから、そっちに生きる場合、否応なしに数字によって自分が支配されるような人生になる可能性が高くなる。例えば時間とか。

時間も数字も概念で実態はない。0の状態で、客観的な世界で生きると意識的無意識的に決めた時にそれは現れる。

主観的な世界では数字は多分ない。渋沢栄一論語と算盤で主観的人生論ではなく客観的人生論に生きる事こそ幸福になる為の秘訣だみたいな事書いてあったけど、僕はスマホができた事によってその主張ももはや違うのではないかなと思う。


大なり小なりで数字をクロスさせて効率化させたり、無駄を改善させたり、うまく活用し使いこなす事でその点で改善させる事ができる。この状態はポジティブな事だとほとんどの人は考えるはず。

この点だけ切り取れば全ての人はいい事だと異論はないけど、その先に執着したり知足しないような少しでは満たされない状態になったりがある可能性がある。

山にこもって自然と共に生きて社会から完全な断絶してる人以外は数字の奴隷なんだと思う