技術と芸術と感動

四谷バンビのランチタイムのハンバーグ。毎日食べたい。いつ食べられなくなるかも一寸先は闇じゃないけど、明日かもしれない。だから食べたい時に仕事やその他の事よりもここを最優先させる。例えば、昨日麻布十番にいて、タイムサービス2時からで1時過ぎに六本木ピックアップから四谷駅前に配達で、やや効率は良くなかったけど時間がちょうどだったんで取った。タイムサービスが2-5時なんで逆算して考える。ハンバーグだけではなく、ご飯の炊き加減、オニオンスープ、ニンジン、もやし、じゃがいも全てが逸品。芸術でかんたんに例えると90年代のジャンプや野球だと90年代後半の広島の打線みたい。8番の西山が3割打ったり、マサルくんやラッキーマンや幕張やアイズなどがドラゴンボールスラムダンク幽遊白書などの主軸の脇をしっかり固めてる。何をするかわからないけど、高い技術で人を感動させるような自分になりたいと脳内で思考を咀嚼しながら食べてた。ちょうどその前、少しうまくいかない点があり、矢先に、切り替えて気分転換に食べに行こうとなった。全てのポジティブでないエネルギーが一瞬で感動に体内が包まれて、一気に吹き飛んだ。⁡
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岡本太郎の作品もその近くにあって、みんな素通りする中、しばらく眺めたり多角的にと見てたけど、同じような180度転換させてる力強さが僕には感じた。⁡
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岡本太郎の作品もバンビのハンバーグも技術であるが芸術の域で、芸術は再現性がない。技術は継承できる。共に技術の域を超越して、誰にも再現性できない芸術の域に昇華したんかなと2つに触れて思った。⁡
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⁡芸術は何も絵を描いたり彫刻を掘ったりするだけではない。あらゆる分野の技術を磨きまくって誰にも真似できない突出した技術の集大成が芸術で、無数の多くの人たちに感動や様々なポジティブな力を与えてくれる私利私欲のない純粋性の塊なんかなと。⁡
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⁡創作本人に純粋性や人格主義の中のいくつかの要因や様々な要素が備わってないと神の魂は宿らないというか覚醒した魂で超越した芸術は生まれないのかなと⁡
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⁡私利私欲が必ずしも良くない事でもないし、利他精神を取り繕えとか押し付けがましさや偽善とかが良い良くないとかでもないけど、純粋性と仁を2つの芸術から感じて、その言語化されてない周波数を人間は感じ取れる。⁡
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⁡可処分時間が増える時代に、人類は芸術に行き着く。各々が独自の領域で技術を磨いていき、突き詰めて長い歳月を経て、芸術の域に達し、周りの人達にポジティブな影響をその作品を通して与えるようなものを作り上げる人達が、テクノロジーが飛躍的に進化するに比例して増えてくんかなと。